2009/06/01

横浜宣教史跡巡りレポート Part1 


 5月某日、東京中会の青年会有志で横浜市内のプロテスタント宣教史跡を巡りました。当日はさわやかな気候に恵まれ、150年前の宣教開始の足跡をたどるのに相応しい一日となりました。その様子をPart1,2に分けてレポートします。

 午前10:30、京浜急行神奈川駅を出発。線路を挟んで山側には、開国時に米国領事館が置かれた本覚寺があり、少し歩けば旧東海道に出るというロケーション。まずは米国長老教会のJC・ヘボンが施療所を設けた宗興寺に向かいます。坂を下って見えてきた宗興寺は、一見お寺っぽくない、学校のような建物。しかし入り口と境内には、ヘボンがこの寺で診療を行ったことを示す碑が建てられています。彼は無料で貧しい人々を診察していました。ヘボンの治療は評判を呼び、はるばる江戸から治療を請いに来る人もありましたが、キリスト教の布教を恐れた江戸幕府により、施療所は開所からわずか5ヶ月で閉じられてしまいます。短い期間ではありましたが、境内に建てられた立派なレリーフを見ると、彼が「ヘボン先生」と土地の人に慕われたことが伝わってきます。

 宗興寺から歩いて5分ほど離れた旧街道沿いに、ヘボン、米国改革派教会のSR・ブラウン、後にJH・バラの宿舎となった成仏寺があります。建物は宣教師の住んでいたころとはまったく違い、入り口に「外国人宣教師宿舎」と書かれた碑が残る以外は、往時をしのぶものはありません。しかしここのお寺は周囲の史跡についての資料を持っておられるようで、ご住職の奥様らしき方が資料のコピーを下さいました。この日はあいにく来客中とのことで、もしこちらのご住職がお手すきだったら宣教師たちのエピソードが聞けたかもしれません。残念。

 街道をJR東神奈川駅方面へ向かうと、市民センターの隣に神奈川宿に掲げられた高札の復元模型を見ることが出来ます。江戸時代から明治時代初期、幕府や新政府がここに「キリシタン禁令」等、数々のお触れ書きを出しました。宣教師たちが来日した1859年は幕府のキリシタン禁令のもと、当然のことながら伝道はままならず、彼らが神奈川宿の寺院に寄宿したのも、幕府が宣教師たちの行動を監視するためでした。JH・バラの妻であったマーガレットの手紙によると、彼らはアメリカの東海岸を出発し、南アフリカの喜望峰を通り、半年かけてアジアへ向かったことがわかります。今日のように交通機関が発達した時代でもなく、目的地の日本は喜んで自分たちを迎え入れてくれる土地とは言い難い。それでもマーガレットの手紙からは、日本にいつか福音の種が蒔かれる希望を持って、彼らが暮らしていたことが伺えます。

 高札後を過ぎると、東神奈川駅へ続く道に出るまで旧街道の松並木が続きます。私たち一行は、150年前に上陸した宣教師たちがたどった道よろしく東神奈川を後にして、山手へ向かったのでした。

Part2につづく)

《写真は宗興寺境内のヘボン記念碑》

0 件のコメント: